【一日目】はばひろい意味での政治
よかったらローアー・イーストサイド以前の幼い頃の話から始めてほしいのですが。
でもそれは政治的でないな。
いや、政治的でしょう。すでに政治的でしょう。
まあ、あらゆるものは政治的だ。そもそも生が政治的だからな。わたしが言いたかったのは、伝記的なことは、みな関心を持たないだろうということだ。
幼少の頃から始めると。わたしは市営団地の貧しい家庭で育った。ほとんどの住民は、黒人かプエルトリコ系で、地区はサンワンヒル、いわゆるヘルズキッチンの北端に位置していた。そこには多くのミュージシャンが住んでいた。たとえばテロニアス・モンクがいて、わたしは彼の家によく通っていた。マイルス・デイヴィスもいた。キューバ系ミュージシャンも多数いた。それは音楽家の街だったのだ。そこで育ったわたしは、音楽に染まり10代でジャズを始めていた。だがそこでヘロイン中毒になった。
ヘロインは大分浸透していたのですか?
40年代と50年代は盛りで、ジャズ界はみなヘロインに染っていた。そんな環境の中で、わたしは何度も逮捕された。わたしは、いわゆる「コールドターキー」になっていて、医者の助けなく、薬品の助けなく、刑務所で中毒を絶っては、出るとまた使ってそこに戻ることを繰り返していた。ある時、刑務所にいる間に、肝臓障害になった。そこで刑務所付属の病院に移送された。肝臓が完全に犯され、死にかけていたのだ。
ずいぶん若かったでしょう?
15歳からヘロインをやっていた。だが刑務所の付属病院にいる時、あるセラピストがわたしを助けようとして提言した。「今度で三度目でしょう。刑務所に入れられて、その間やめて、出るとまた始めて戻ってくる。このままだと、また繰り返すでしょう。いっそジャズをやめて、絵画か何か、別の表現方法を見つけたらどう?」彼女は、ジャズ界にいる限り、わたしがヘロインをやめないことを見抜いていて、治療方法として、わたしに絵を描かせはじめた。それから60年たって、わたしはまだ絵を描き続けている。
それ以後ひたすら、絵を描き続けた。やがてローアー・イーストサイドのアーティストたちと交流し始めた。そこで、ちょうど先週亡くなったアルド・タンベリーニという年長のアーティストと親しくなり、彼からいろいろ学び、彼と一緒に「Group Center」という反商業主義を目指すグループをつくった。
ポロックやロスコといった抽象表現主義者に批判的だったのですか?
むしろ抽象表現主義に代わって台頭していたポップアートに批判的だった。抽象表現主義は、大画廊と美術館の目論見によって、アメリカ的商品になっていったが、アーティストたち自身は、どこかで生に対するアートの必要性を信じていたと思う。他方ポップアートは、アートの商品化を嘲笑的に演じていた。
「Group Center」は、それと異なったアートのあり方を目指していた。商業画廊でない公共空間で、当時あまり浸透していなかったパフォーマンス、あるいはイベントを仕掛けていた。それを2年ほど続けている間、わたしはより政治的になっていった。同じグループに、わたしと同じ方向を目指していたアーティストがいて、彼と一緒に「Black Mask」を始めた。それはアートと政治をつなげる試みだった。
「より政治的」というのは、あなたにとって、どういう意味を持っていたのですか?
そこに焦点が移ったという意味だ。ジャズ時代、わたしはある種の政治的感性を培っていた。黒人が多く住む団地で育って、アメリカンドリームの虚偽を自覚していた。何かが間違っていると感じていた。わたしは下層階級の一員だったわけだ。政治的意識は限定されたものだったが、民衆の抑圧について感情的な怒りを育んでいた。
政治的認識が芽生えるとともに、世界の問題を意識するようになった。黒人の闘争には常に親近感を持っていたが、ある時期からベトナム反戦運動に関与するようになった。「Black Mask」を始めた頃は、黒人闘争と並んだ形で、ベトナム反戦を戦っていると感じていた。「Black Mask」はその表現だった。
「Black Mask」を始めたのは、何年でしたか?
活動としては65年あたりで、雑誌を始めたのは66年だった。発行は10号だけで、それは2年しか続かなかった。
「Black Mask」に関わったのは、二人だけですか?
最初、雑誌を作っていたのは、二人だけだったが、市内で色々な行動をやって、それが関心を呼び、新人たちが参加するようになった。大きな集団に成長することはなかったが、その中で様々な人々に出会った。
いずれ詳しくうかがいたいことの一つは、どうしてあなたには、あそこまで異なった傾向の運動をつなげることが可能だったのか、ということです。ブラックパンサー、SDS、イッピー、ウェザーマン、ディガーズ、マレイ・ブクチン系のアナキスト、ウォーブリーズの中のラジカルな傾向(・・・)。またあなたは、シチュエーショニストや全学連のメンバーともつき合っていますね。まさに1960年代ラジカルの縮図ですね!
だが、わたしたちの関係性は、政治運動の人々にとどまらなかった。アーティスト、詩人、演劇人をつなげていた。またカウンターカルチャーの中でも、サイケデリック系の人々と交わっていた。さらにドロップアウト、野宿者、ヴェトナム復員兵、そして家出少年/少女たちーーわたしたちの交流が、政治運動の人々に限定されていたことは一時もない。それだけだったら、わたしたちが成したことは、可能でなかっただろう。
だからこそ、このように集中的に話をうかがいたかったのです。決して運動史的な分類には収まらない、予期せぬ出会いと交流に満ちていますね。そう言えば、あなたはユリ・コウチヤマとも親しかったのですよね。
それは全くの偶然だった。彼女に出会ったのは、子供の頃だった。どういう機会だったのかは、覚えていない。13、14歳のわたしにとって、母親くらいの年齢だった。ともかく彼女は、わたしにとても親切で、いつも声をかけてくれた。
つまり彼女とは闘争を通して出会ったのではないのですね。単に隣人だった。
そう。初めに会ったのは、同じ団地の中だった。そしてとてもアイロニカルなのは、何年も後に、わたしが政治化した後、再会したことだ。その頃、彼女はハーレムに住み、マルコムXらと交流していた。
彼が撃たれて死んだ時、彼女はそこにいた。
死にゆくマルコムの身体を支えていたのは、彼女だった。
彼女との再会は、何年も後のことだった。完全に闘争に没入しいたわたしを見て、彼女は驚いていた。「ああ、あの時の君なのね!」それから彼女は、ハーレムの自宅にわたしを招待してくれるようになった。そこでわたしは、黒人の戦闘的活動家や知識人の会合に参加しはじめた。そこではわたしと彼女以外は、みな黒人だった。
いい話ですね。主題を行動に戻すと「Black Mask」の後、「Up against the Wall, Motherfucker!」を始めたのですね。
そうだ。だが、その名をつけたのはわれわれではない。自分達を「Up against the Wall, Motherfucker!」などと呼ぶのは、気取りすぎだな。わたしたちに名前はなかったのだ。その名の経緯には、このグループの最初の行動が関わっていた。それはリンカーンセンターにゴミを運び込む行動だった。^1
ニューヨーク市全体で、清掃業者のストがあって、ローアーイーストサイドなどの貧困地区では、ゴミが溢れていた。富裕地区では、私営の清掃業者が処理していた。わたしたちは、それを不平等と判断した。つまり彼らもゴミを所有すべきだと。(笑い)。彼らはゴミを欲っしていると。そこでリンカーンセンターに大量のゴミを運び込むことを決定した。そこでその行動を告知するチラシを作った。それは「文化交換/ゴミにはゴミを」と名づけられた。
このグループは、もと「Black Mask」の周りにいた仲間で構成されていたが名前はなかった。アイデンティティーはなく、イデオロギーはなく、ただのラジカルな徒党だった。だがチラシを発行するには、呼びかけ人か何かの記名がいる。たまたまわたしはリロイ・ジョーンズ/アミリ・バラカと友達で、その頃、彼は「Black People」という詩を書いていて、そこに「Up against the Wall, Motherfucker!」という文句が含まれていた。^2 わたしは、それをいわば「挑発的な呼びかけ」として使おうと提案し、それをチラシの最後に記すことにした。だから、それをグループ名にするつもりは全くなかったのだが、チラシを見たほとんどの人たちが、それをわれわれのグループ名と勘違いし、それが定着してしまったというわけだ。
「Up against the wall」とは、何か障害にぶちあたっている状態を示唆していたのですか?
いや。そんな比喩でなく、文字通り「壁に向かって手を上げろ」という命令句の方だ。たとえばゲットーで、警察官が誰かを逮捕する時「壁に向かって手を上げろ、このクソ野郎!」と叫ぶ。犯罪者も、誰かから金をとる時、被害者に対して、同じ言葉を使う。つまりこれは、警官も犯罪者も使う、ゲットーの常套句だったわけだ。
だが、わたしは「犯罪者」という言葉を使いたくない。つまり特定の誰かが、自ずと犯罪者になるのではないからな。貧困が罪を作る。だからゲットーでは、当然、人々は犯罪者にされるのだ。
あなたには、犯罪者に対する実存的な共感があるのですね。彼らは「革命的」だと思いますか?
時として彼らは叛逆者になる。彼らは間違えなく対抗的だ。彼らは理論的に革命的なわけではない。だが、実存的に、押しつけられた秩序に対抗している。だから革命と犯罪の間には、常に相関性がある。
多くの犯罪者は、状況に応じて、革命的になる。誰もが知っている古典的な例は、ロビン・フッドだろう。彼とその仲間たちは、イギリスの支配階級が自分達の所有物にしようとしていた森に住んでいた。彼らは、そこに住んでいただけだろうが、それだけではない。法の外に住むことの意味と、革命と犯罪の間の相関性を背負うことになったのだ。
その意味で、叛逆の対象は、結局、富と所有ということですね。あなたが幼年の頃から、上流階級に対して抱いてきた感情的な怒りにも通じる。
そうだ。その意味で、リンカーンセンターの行動にも通じるのは、その敷地が、わたしが育ち、モンクたちが住んでいたサンワンヒルだったということだ。市と開発業者が、その居住区を取り壊して、リンカーンセンターを建てたのだ。団地はまだあるが、貧困者居住地帯は解体されて跡形もない。
つまりリンカーンセンターが、西60丁目界隈に広がっていたサンワンヒルを乗っ取ったわけですね。
そうだ。それはヘルズキッチンの北端に面していた。その南端の37丁目から42丁目は、イタリア系地区で、わたしの母が生まれた所だ。それで42丁目以北は、アイルランド系になり、そこから北は、異人種混淆のサンワンヒルとなる。
歴史的には、黒人が大多数の地区だったが、そこにプエルトリコ系が移住した。それからイタリア、アイルランド、ギリシャ系と続いた。それはニューヨーク市でも、最も新しい文化創造の可能性を孕んだ多人種混淆地区だった。すでに述べたように音楽家やその他の創造者たちが多く住んでいた文化天国だったのだ。だが、権力は生きた文化創造の共同体を破壊して、文化の紋章をかかげる殿堂を打ち建てた。貧者が潤う共同体を破壊して、自分達が崇める文化の城をつくったというわけだ。
だからわれわれの行動の動機には、二重性があった。つまりその基盤には「アメリカにおける支配者たちが崇め奉る西洋文化なるものはゴミである」という主張があった。
そのサンワンヒルにかつてあった文化共同体は、歴史的記憶から消されてしまっているようですね。
そこで何が起こっていたのか、知っている人は、現在ほとんど残っていない。
その意味で、60年代のローアーイーストサイドも今とはよほど違っていたでしょう。
ローアーイーストサイドの住人は黒人、プエルトリコ系、そしてウクライナ系が主だった。やはりゲットーで、家賃はとても安かった。貧困な住人に加えて、画家、詩人、演劇人などのアーティストたちが住み、ビート世代からニューエイジ、そしてサイケデリックを含むカウンターカルチャーの中心だった。
そしてそこがあなたの活動の舞台となった。その基本線は、近隣空間における共同体の組織化だったのでしょうか?
そうだ。だが、われわれの方向性は、住民運動の組織化とは若干違っていた。マルクス主義者は、組織化を主張するが、われわれはその逆だった。何も組織しようなどとはしていなかった。われわれは自由に生きようとしていた。そしてそれが人々を刺激した。自由に生きるとはどういうことか、その例を示したのだ。それはある意味で「組織的」な試みだったが「組織化」ではなかった。
わたしたちはかねがね「自由」という言葉に、関心を抱いてきました。それは60年代には、象徴的に使われていた言葉だったが、今ではほとんど聞くことはない。あなたとあなたの仲間にとって、「自由に生きる」とは、資本主義、そして官僚機構の外で生きるということだったのでしょうか?
君の人生は、君自身によって動かされている。外のどんな規範によってでもない、ということだ。経済的自由、文化的自由、精神的自由、芸術的自由ーー人々が全面的に自由になること、わたしたちはそれを志していた。それは反資本主義という意味だけではなかった。
実際、われわれは資本主義という言葉をほとんど使わなかった。自由であるために、資本主義に対抗するのは自明のことだった。だが同時に、それが主要な目標ではなかった。主要な目標は、アルタナティヴを打ち立てることだったのだ。
たとえば、われわれはウッドストックで、囲いのフェンスを切り開けた。あまり知られていないが、ウッドストックは、そもそも無料イベントではなかった。入場料をとる関門がフェンスの間にいくつか設けられていた。だからわれわれは、それに抵抗してフェンスを切り開けた。そこから無数の群衆が流れ込んだ。何千人も。主義者たちは「フェンスを開けた?馬鹿馬鹿しい!」と言った。だがそれはわれわれにとっては重要だった。それが、このイベントはわれわれの文化なのだ、ということを示す方法だったからだ。それは商品ではない。特定の誰かを金持ちにするためのものではない。それはわれわれが分かち合うものだ、と。
だからわれわれの方向性は、単に対抗的なものではなく、より肯定的なものだった。われわれは、われわれの自由を削減するものに対抗する行動よりも、生をより自由にする行動に重きを置いていた。
つまり目的は、権力に挑戦することそのものでなく、人々が自分達のために行動する力を強化することだった?
それでも結局、両方を含んでいた。われわれは人々が自己組織化することを促した。そしてそれは同時に、外部の階層序列としての制度を破壊することも意味した。
そのことを強調するために、わたしはいつも自分達が関与した二つのイベントを並べて語っている。それらは大変異なっているように見えるが、わたしにとっては、同じように重要だった。第一の例は、ウッドストックのフェンスを切ること、第二の例は、ペンタゴン突入だ。
ああ、ペンタゴンへの大衆デモ集会の間に、その中の先鋭的な有志をつのってやった決死の行動ですね!その後ブラックブロックの定番となったブレーク・アウェイ戦術で、奇跡的に、あの難関の突入に成功したという。[^3]
われわれは、歴史上それを実現した最初で、おそらく最後のグループだろう。それは勿論、極端に戦闘的な行動だった。われわれは大きなリスクを背負ってやった。そして大きな犠牲も出た。だが、アメリカ人のある部分は、ヴェトナム戦争を終わらせるためにどこまでも闘う、ということを示すためにやったのだ。それが決定的に重要だと感じてやったのだ。
だが結局、わたしにとっては、無料イベントにするためにウッドストックのフェンスを切ることも、同等に重要だった。それは、人々に必要なのは、プロデューサーではなく、お互いなのだということを示すためだった。そして結果的に五千人もの人々が無料で入場したのだ。
それらが同等だというのは、それらが実現する自由が同等だということでしょうか?
それらはそれぞれ、自由を目指す闘争の本質的な構成要素を体現している、ということだ。
さらに、われわれにはヒエラルキーがなかったということを示している。わたしにとって、それがわれわれの指標だった。われわれはアートも文化も政治も差別しなかった。それらは全て自由に生きる闘争の部分だった。
われわれがやった行動は、全てその思想に基づいていた。われわれはローアーイーストサイドで、何百人もの人々を食べさせる大饗宴をやっていたが、それもまたわれわれにとっては革命的な行動だった。それらは、人々を組織するのでなく、人々が自ら共産化する媒介たることだった。
あなたのグループの中に、最も革命的な行動が何かをめぐっての亀裂、あるいは意見の対立は、あったのでしょうか?
われわれのあり方は、そんなことを必要としなかった。われわれはそもそも合意など必要としていなかった。何かやりたければ、単にやりたい者がやるという風だった。
何人くらい仲間がいたのですか?
核には、40か50人くらい。その周りに、百人くらいの支援集団があった。そしてその周りに、数百人くらい。それは水に石を投げた時の波紋のように広がっていた。
核は大して大きくなかったが、われわれは人数にこだわっていなかった。
組織としての拡大はどうでもよかったのですね?
そのとおり。われわれは組織を作るために何一つしていない。重要な運動になろうなどということに何の関心もなかった。単に自由になろうとしただけだった。
それが力というものですね。行動が、前もって何らかの効果に規定されていず、その地平が自ずと開かれていく。
だから主義者たちは、われわれを嫌っていた。われわれは常にそうした混合的なスタイルをとっていた。アートが常に政治、詩、スピリチュアリティーと共にあった。常に組織化された政治だけではなかった。
いわば最も幅広い意味での政治的なもの、つまり「生」が主題だったのだ。
その意味で、あなたが「より政治的なった」という時、それは「より生に関与しだした」という意味ですね。
問題は「生を変える」ということだ。革命とは、単に政治的/経済的構造を変えることだけではない。革命的行為とは、生を全面的に変えることだ。
そしてその目的は、自由になること。しかしその「自由」という概念を規定するのは難しい。それを生きるのは自分達だから、その定義は、その人次第でもある。ただ明らかに、それはイデオロギーによって規定されうるものではない。
そのような定義で失われるのは「相対性」の感覚だ。今日のいわゆる「政治的正当性(political correctness)」は、絶対性を求める。相対性を嫌う。だが、生において、絶対性の場所はない。
たとえば、わたしはブラック・パンサーの面々と交流していた。彼らには、権威主義的な傾向あった。わたしは彼らのその側面に反対していた。それでもわたしは、より大きな抑圧機構であるアメリカとの闘いにおいて、彼らの同伴者だった。
だから、彼らによく言っていた。わたしは君たちの権威主義に反対している。われわれの闘争がうまくいく時が来れば、その問題をめぐって闘おうと。だが、今のところ、アメリカか君たちかという選択において、わたしは君たちの側だと。
そんな意味で、相対性が必要なのだ。だがある種のアナキストたちは、アナキズムを信じるわたしは原則としてブラック・パンサーに好意的であってはならないと感じていた。
それはイデオロギー的純粋主義の問題ですね。
イデオロギーに基づいて決定するのでなく、時と場所に応じて事態を考えねばならない。重要なのは、政治的に正当であることでなく、その事態に応じてプライオリティーを選択し、何が可能か、理解し行動せねばならない。
だから、相対性の感覚を取り戻せねばならない。それは今日ほとんど完全に忘れられている。
色々考えさせられます。今日は二つの概念を学びました。「自由」と「相対性」という。ことに「自由」は、ほとんど聞こえてきません。60年代以降、消失してしまった。
それらが聞こえてこないのは、人々が「対抗性」にこだわり過ぎて、自分達が何に対抗しているのか、忘れてしまったからだ。
この「対抗性」の罠には、何かメカニズムがあって、相対性の感覚を保持するのが困難になっているようにも思えます。
それは統制の問題だな。絶対主義的に思考する者を統制するのは容易だということだ。そして左翼が、対抗性のみを強調するのは、それによって人々を統制し易くするためだ。それに対して、相対的に行動する者を統制するのは難しい。それは逆にわたしたちの行動をより柔軟にする。ドグマやイデオロギーではなく、感性によって、思考し行動することが重要なのだ。
さらにわたしたち自身、自分の感じ方を統制することは出来ない。そこには主観性以上のものがある。
然り。相対性は、事物の深みを感得する自由を与える。名指されるものを超えた、その実在を。
【二日目】武装する愛
今日お聞きしたいのは、ローアーイーストサイドの日常といったことです。何を食べて、どこに住んでいたとか。どうやって生計を立てていたとか。
たくさんあやしい要素があるな。つまりわれわれはまず泥棒だったのだ。とくに女たちは、大変見事な盗人だった。われわれ自身が食べる食糧のある部分は、盗んだものだった。だが同時に、われわれは人々を養ってもいた。そのために、われわれは自由主義的な教会から非営利団体の認可証を借り受けていた。それを持ってマーケットに行って、無料で食品を調達していた。それで3~4百人もの人々に夕飯をふるまっていた。無論それをわれわれも食べていた。
さらに資金調達をしていた。われわれは、いわゆる「クラッシュパッド」を運営していて、人々に無料で宿舎を提供していた。例えば、たくさんの家出少年/少女がいたのだ。巷で、そういう子供たちを見つけては、住所を教えてそこに行かせていた。そしてわれわれもそこで寝泊まりしていた。だから自分達の家賃は必要なかった。
クラッシュパッドは、スクワットだったのですか?
いくつかはそうだったが、他は家賃を払っていた。でも、ローアーイーストサイドの家賃はたかが知れたもので、一ヶ月50ドル以下といった具合だ。それを調達した資金で払っていた。わたしたちには、人々を喰わせ、寝かせる基金があったのだ。多くの人々が、寄付していた。ドラッグディーラーたちさえ。ある時期、ローアーイーストサイドのほとんどのディラー(ヘロインのようなハードドラッグでなく、マリナファ系)が寄付していた。
へえー、何故ですか?
われわれは共同体を構築していたのだ。そして彼らもその恩恵にあずかっていた。ローアーイーストサイドは、ある種のメッカだった。多くの人々を寄せつけていた。そこでディーラーたちも儲けていた。サイケデリック系のディーラーも儲けていた。だから彼らも、その共同体そのものを支援していたのだ。
大事業だったんですね。
そう。無料食糧とクラッシュパッドの他に、フリーストアーをやっていて、人々は衣料などを無料で受けとっていた。さらに囚人を刑務所から出すためのベイルボンドをやっていた。弁護士や医者もいて、それは拡張的な企画だったのだ。
資金はどう保存/管理していたのですか?キャッシュですか?
それはわたしの管轄でなかったので、管理の仔細は説明できないが、マリファナなどの調達も含めて、ほとんどキャッシュだったな。
資金調達も重要だったが、それは部分でしかない。たとえば、われわれの事業形態の一例を紹介しよう。
ヨーグルトはパッケージに入って売られているだろう。バニラとかストロベリーなどのラベルがついた。それらはオートメーションで、パッケージ化されるわけだが、機械ミスが起こる。中身とラベルが合わなくなる。すると生産業者Dannonは、捨ててしまう。毎週、何千もの容器に入ったヨーグルトが捨てられている。クラッシュパッドには、大型の冷蔵庫があったので、毎週歩きまわってそのヨーグルトを、55ガロンほどの容器に集めて保存した。そしてそれを荷車に積んで、巷で無料供給していたのだ。
そうした活動をになう集団の名前はあったのですか?
人々は「Up Against the Wall」を知っていたが、その他に非営利事業には、「East Side Service Organization, ESSO」を使っていた。石油会社と同じだ。
大変なアイロニーですね。(笑い)
そうだな。それにESSOのそれを模倣するロゴをデザインして、界隈に貼って歩いた。それはわれわれのフリーストアのロゴでもあったのだ。
だが、われわれは慈善事業をやろうとしていたわけではない。フリーストアは、無料の衣服を置いていたので、着るものがない人々は来て衣服を持っていった。そこには皆が使う印刷機もあった。たとえば無断退出の兵士がきて、着替えの衣服を調達し、偽の身分証明書を印刷することもできた。だが、その目的は無料で商品や技術を分け与えること自体より、生が自由になるための可能性を分かち合うことにあった。その意味で、慈善事業を越えようとしていた。
なるほど。そのあたりの差異が重要ですね。ところで、フリーストアはどこにあったのですか?
10丁目のAアヴェニューとBアヴェニューの間にあった。それから3アヴェニューのより大きな場所に移った。そこはわれわれがビルごとスクワットした一階店舗だった。初めに店舗を始めて、その上が全部空いていたので、それらも乗っ取った。
そこには様々な人々が行き来して、大いに盛況だった。ことに「the Wine Group for Freedom」という黒人やプエルトリコ系のホームレス集団の面々も積極的に運営に関わってたむろしていた。
そんな具合に、われわれはイーストヴィレッジ/ローアーイーストサイド界隈で、いつも色々活動していた。セントマークスでは、炊き出しをやり、トンプキンズスクエアー公園では、毎週無料コンサートを企画していた。多くのバンドが、これには無料出演していた。ここでは、白人ロックだけでなく、ラテン系のサルサやスティールドラムや黒人ブルースバンドを招待して、界隈の多様な文化を引き受けようとしていた。
われわれはまたフィルモアイーストを占拠した。毎週一晩の無料コンサートを要求して、それが受け入れられるまで、ステージを乗っ取って動かなかった。それが実現して、ロック系のカウンターカルチャーの解放にある程度貢献したと思う。キャンドヒートは、われわれの盟友で、いつも無料出演してくれた。その他には、MC5、カントリージョー・マクドナルド、スライとファミリーストーンなどがやはり無料出演でよく来てくれた。
ともかく、それらの活動は、すべて多種多様な住民の構成を意識していたのですね。
われわれは、この界隈の活動を、白人のヒッピーやドロップアウトだけでなく、一つの多種多様な共同体形成を目的に実践していた。そこには、白人、先住民、黒人、プエルトリコ人がいた。そしてわれわれのグループの中にも、いくつかのウイングがあった。ホームレス、アーティスト、詩人、演劇人、それに学生。われわれはコロンビア大の占拠闘争に参加していたので、多くの学生たちがわれわれの方にも引き寄せられていた。われわれは意識的に、混合性を求めていた。
年齢は、20代など、若者が多かったのですか?
ほとんどの世代が参加していた。若者、老人、ティーンエージャー、それに子供たちも。10~12歳の家出少年/少女が、クラッシュパッドで一緒に暮らしていた。われわれは彼らを巷で拾って、面倒を見て、家に帰るよう説得はするのだが、なかなか帰ろうとしない。そんな具合で、複合的な年代で構成されていた。実際、われわれは自分達を「ファミリー」と考えていた。それは「組織」ではなかった。われわれは自分達を「Up Against the Wall」ではなく「ファミリー」と呼んでいた。
その「ファミリー」内部に、幾つもの集団性があった。たとえば、学生には、彼ら自身の存在様態がある。だから彼らは、彼らのクラッシュパッドで暮らしていた。他のクラッシュパッドは、ドロップアウト系、ホームレス系など、色々あった。ただし、われわれは、誰にもどこへ行けとは言わなかった。人それぞれが自分の集合性を見出していたのだ。
あなたはどうだったのですか?どこで寝ていたのですか?
わたしは、二、三日以上、同じクラッシュパッドに泊まらなかった。常に移動していた。まあ、居場所が、わからないようにしていたわけだ。
その時点で、すでに地下に潜っていたのですか?
まあ監視の眼から逃れていたわけだ。
その界隈での警察との確執は、どんなだったのでしょうか?
状況に応じて、さまざまな事態があった。彼らはいつも人々をいじめ、わけなく逮捕しようとしていた。まあ、どこでもそんな具合だろうが。だがわれわれは極端に敏感で、いつも、どれだけ弾圧されるかによって、異なった対応をしていた。
たとえば大量逮捕があった時は、デモを呼びかかけた。その晩には、数百人が警察署に集まった。そしてしばしば、それが暴動を誘発した。そこでさらに多数が逮捕され、さらに多数が集結する。そんなパターンがくりかえされた。
われわれは謄写版印刷機を持っていたので、それでビラをつくって、界隈にまいていた。ほらここにある。こんな印刷物を何百部も刷っていた。場合によっては、謄写版を持って出て、巷ですって配りさえした。
ああ「News from the Streets」ですね!時代を感じさせますね。「heads」「freaks」「the hip community」など。ヒッピーたちとも関係があったのですか?
「ヒッピー」という言葉は、むしろメディアが作ったものだ。われわれは「フリークス」あるいは「ドロップアウト」などの呼称を好んだ。
それにわれわれのある部分は、より初期の「ビート」世代に属していた。世間では、ニューエイジあるいはヒッピー・カウンターカルチャーなどが盛んだったが、われわれはむしろビートの影響を強くうけていた。
服装は、長髪でヒッピーのようで、ローアーイーストサイドに集まっていたドロップアウトと交わっていたが、われわれはどこか違っていた。つまりわれわれには「エッジ(刃)」があったということだ。
巷は荒んでいた。そしてわれわれの多くは、若い頃から犯罪者の刻印を押されていた。だからわれわれは「ラブジェネレーション」や「フラワーチルドレン」ではなかった。「平和」と「愛」に対して、わたしの思想でもある「武装する愛(armed love)」を主張し実践していた。
つまりいつも武装していた。銃を持っていたんですね?
そのとおり。言い換えると、われわれは「平和主義者」ではなかった。われわれは「自己防衛(self-defense)」を、つまり「武装闘争」を信じていた。だから本場者のヒッピーたちは、われわれをだいぶ用心していた。それに対して、主義者たちにとって、われわれは部外者だった。マルクス主義者の多くは、われわれを嫌悪していた。われわれがLSDをつかい、巷を闊歩していたから。
つまりわれわれは、奇妙な中間地帯にいた。そしてそれがわれわれ「ファミリー」の美徳だったわけだ。
マルクス主義者にとって、LSDをつかい、巷を闊歩していることのどこが問題だったのですか?
基本的に彼らは文化を嫌っていた。それを「非政治的」と見做し見下していた。それに関わりたくなかったのだ。だからサイケデリックやニューエイジ総体を否定していた。それに対して、われわれは、カウンターカルチャーを政治的に認識する地平、そこに向かっていた。
そういったことについて、彼らと討論したのですか?
いや。たとえば、フィルモアの無料コンサートの件にしても、彼らは全く関心を持たなかった。ただラリっているヒッピーが馬鹿な事をやっている、くらいの反応だった。彼らはひたすら「プロレタリア」のことを気にしていた。だが、いったい彼らは家出少年少女やホームレスを、何だと思っていたのか?
結局、当時の状況全体に分裂があった。政治的か、サイケデリックか?われわれが特異だったのは、その両方だったからだ。われわれは戦闘的で、革命闘争に全面的に身を捧げていた。そして同時に、全面的にアルタナティヴなサイケデリック世界の部分だった。
それが重要な力だと考えていたからでしょう。
だがそれは思想的決定ではなかった。路線として重要だから、そこに介入しようといったことではなかった。われわれはそれを信じ、その部分だった。サイケデリック世界の人々と同じように、われわれは心と体そのものを変革せねばならないと信じていた。
そのあたりをもう少し。サイケデリック運動は、どのように闘争に関与していたのですか?
それはいわゆる政治的闘争の部分ではなかった。それは規範の外で生きる方法を見出す闘争の一部だった。それが大変重要なことだったのだ。その当時、多くの人々が、郊外を、つまり白人中産階級の世界を去ったのは、サイケデリック化されていたからだ。
その意味でアメリカは大変動の最中にあり、サイケデリックはその主要な部分だった。そしてわれわれはそのエネルギーの一部だったということだ。
LSDを行動の最中に、使うことはあったのですか?
いや。それは行動とは関係なかった。むしろ日常生活の部分だった。
皆で一緒に使うことはあったのですか?
必ずしも、一緒にではなかった。人それぞれということだ。計画などなかった。一人でやって、街をぶらぶらしたり、二、三人でやって、週末誰もいないウォール・ストリート街を歩き回ったり、ステイタンアイランド行きのフェリーに乗ってやったり、全くオーガニックに対応していた。
でも、サイケデリックをやることが、助けになったからでしょう。それが人々の関係にとっても良いということはなかったのですか?
わたしは、結果のために、何かするという考え方を信じていなかった。われわれはただやった。そしてそれが変革につながると信じていた。
たとえば、心はプログラムされている。それを回避することはできない。だから心を脱プログラム化するには、何かを使うほかない。LSDは、その力になる。それは脱プログラム化であり、この社会を支配している幻想を断ち切ることだった。
ただし特定の人々にとって、LSDは有効でない。むしろ害を及ぼす。ある人々にとっては、あまりに影響が強烈で、破壊的に作用するので、その状態から出る時に、入る時よりも、恐るべき経験をする。それはほとんど悲劇的でさえある。
だからわれわれは、人に知らせずにLSDを給与する実験に反対していた。それは西海岸のケン・ケーシーらが盛んにやっていたことだ。「Kool-aid-acid」という、どこかにLSDを放置して、人にそうと意識せずに飲ませるという実験だった。
人が通常の世界に生きていると思っていて、突然それが崩壊する。信じ難いことだ。それはほとんど人殺しだ。われわれはこの実験には断固反対していた。人はLSDによる日常的知覚の断絶に挑戦する時、そうと意識してかからねばならない。そこで起こることを準備していなければならない。
だがわれわれは、一般的にLSDとサイコトロピック一般の使用を奨励していた。われわれはティモシー・レアリーのようにそれを万能薬と見做してはいなかったが、それが社会における、そして宇宙における自分達の位置を根底的に問う力になると考えていた。
具体的には、どのようにその使用を奨励していたのですか?
B: 一つの重要なポイントは、「life drugs」と「death drugs」をはっきり弁別することだった。後者は、ヘロインやスピードなどのハードな薬物で、われわれの多くが、その破壊的な影響をうけていて、その害を十二分に知っていた。前者は、生を助長するもので、サイケデリックに加えて、マリファナ、ハシシやサイコトロピックを指していた。
したがって、フィルモアの無料コンサートの夜には、その区別が具体的に適応された。たとえば、そこが左翼の気に障ったのだが、会場で「life drugs」を無料配布していた。それに対して「death drugs」を持ってくる者たちを、会場から排除していた。
あなたのローアーイーストサイドにおける実践には、人々を保護する役割があったのですね?
B: そうだな。ことに郊外から逃げてくる若年層には。彼らを餌食にしたくなかった。
ローアーイーストサイドは荒れていた。それは極端なゲットーだった。無数の家出少年少女たちが巷に溢れ、常に狙われていた。その多くは、家から逃げてきた子供たちだったが、自分達がどんなところに来たのか、考えてもいなかった。だから彼らを保護し、防衛していた。毎晩、武装して界隈を巡回し、彼らが無事か見て歩いた。そしてクラッシュパッドの住所を教えて、そこへ行けば、安全に食べられ、寝られることを知らせていた。
合衆国政府とニューヨーク市は、彼らを助けていなかったのですね?
全く助けていなかった。そしてわれわれの思想は、われわれは自分達で自分達を防衛する、ということだった。われわれは、合衆国や市と全く別の自律した共同体をつくりたかったのだ。自分達の民衆を守るのに、警察を必要としていなかったのだ。
その意味で、ローアーイーストサイドのどのあたりがーーよくない言い方ですがーーあなた方の領土だったのですか?
南北縦軸で一丁目から14丁目、東西横軸で3アヴェニューからアヴェニューDまでかな。
ええ?!そこまで大きかったのですか?その内部では、かなり影響力があったのですね。
あった。たとえば、ある晩、ストリートを封鎖して、パーティーをやり、何百人もの人々が集まる。警察が来るが、こちらの大勢に恐れをなして、引き上げていく。それが通常だった。
だがある時点で、われわれが強くなりすぎたために、権力がほっておけなくなった。そして次々に仲間を逮捕しはじめた。だがしばらくの間、警官はわれわれを統制しえなかった。
それは60年代、68/69年頃まででしたか?
そう、60年代いっぱいだ。
その後、ある時点で、ニューヨークを去ったのですね。いられなくなったということですか?ローアーイーストサイドという自分達の共同体を去るのは、辛かったですか?どのように感じておられましたか?
そこには複雑なものがあった。去らねばならない状況だったのだ。
まだ心に残っている仲間の誰かが言った言葉を敷衍すると、結局ここは彼らの世界だった、ということだ。われわれには闘い、抵抗し、反乱することができた。だが、ここは、あくまでも彼らが自分達のものと信じる世界だったのだ。
ある時点で、わたしは結論に達した。もし異なった世界をつくりたいのなら、自分達でそれを為さねばならないと。
皆で一緒に去ったのですか?それは何年でしたか?
わたしがニューヨークを去ったのは69年で、そこには法的問題も関わっていた。何人かはわたしと同じ時点で去ったが、他の人々は少し長く残っていた。
それでその後、どうされていたのですか?
それから戻ってくるまで40年かかった、ということだ。その40年間に、わたしは多くのことを学んだ。わたしは別の、全く異なった世界に行っていたのだ。わたしはその世界がどんなものか知ろうとしていたのだ。そして今、40年後、わたしはわたしが学んだことを持ち帰ろうとしている。
また後日、その40年間のことを詳しく伺いたく思います。もちろん、ある事柄については、話されたくないでしょうが。
そういう話題になったら、話せないと言うだろう。あるいは、防衛線を引いて話すことにする。
この会話であなたが使っておられる多くの概念については、もとは60年代から来ているのでしょうが、その別の経験のレンズも通っているのでしょうね?
そのとおり。一つを捨てて、別を拾うというのではない。それらは一体化している。例えば、わたしの過去のサイケデリック世界は、わたしの現在のサイコトロピック世界と、一体になっている。
だがわたしには、残された時間があまりない。
わたしたちは、今この時をあなたと共有できて、嬉しい限りです。
わたしも楽しんでいるよ。
[^3]: この出来事の概要は、以下の映画で示されている。The Sixth Side of the Pentagon (1968), directed by Chris Marker.